エニアグラムを知ると、わたしたちは自分の持っている知識で、つい自分や他人をタイプに当てはめ、「あの人はあのタイプ」「このタイプ」と、人をタイプ分けして見てしまうことがあります。 性格タイプのエニアグラムはその入り口が、自分のタイプを見つけることにあり、自分のタイプを探していく過程では、当然他のタイプの人との違いを理解していくことになります。ですから、タイプ探しを始めて、自分のタイプがわかってくると、人のタイプも少しずつわかるようになり、それがとても新鮮な驚きとなって、「あの人はこのタイプ」「あのタイプ」と、周囲の人をタイプ分けしてみたい誘惑にかられるわけです。 そのこと自体はエニアグラムを学んでいく上で生じてくる、わりあい自然な心理過程ではないかとわたしは思っています。けれども、他人をエニアグラムのタイプに当てはめてみるとき、わたしたちはともすると、そのタイプの恵まれた資質に目を向けるよりも、むしろ否定的な側面にばかり目を向けてしまいがちです。 そして「他人をタイプで決めつける」という愚をおかすことになりかねないのです。要するにレッテル貼りですね。 自分自身のことをよく分かっていない人ほど(けれども、自分では自分のことはよく分かっているつもりの人ほど)、他人にこのレッテル貼りをしてしまう傾向があるように見受けられます。そして、「あの人はタイプ2だから・・・」「タイプ3だから・・・」と、他人をタイプの枠に押し込めて、わかったつもりになって安心してしまうのです。 他人をタイプで決めつけてしまうと、わたしたちはその人の語る言葉に真摯に耳を傾けることができなくなってしまいます。たとえば、次のようなことが起こりうるのです。 ーーこんなことがありました。 ある人が自分がこれから学びたいことやいま興味を持っていることについて語りました。すると、エニアグラムのタイプをよく理解していると自認している人は、その話を聞いて「それがまさしく、あなたのタイプの傾向なんですよね」と返事をしました。 また、ある人がその場で疑問に思ったことについて、「これはどういうことなのでしょうか?」と質問すると、エニアグラムをよく理解していると自認している人は、「いまの質問はまさしくあなたのタイプの囚われを示しているものです」と答えました。また、ある人が皆の前で自分の悩みについて打ち明けると、エニアグラムのタイプをよく理解していると自認している人は、「さあ、みなさん、ご覧になりましたか。これがこのタイプの人の悩み方なんですよ。そのときの表情や語り口にもタイプの特徴がよくあらわれていましたね」と、みんなの前で言いました。。 さて、これで自分のことを語ったひとは、エニアグラムとはなんと素晴らしいものだと思ったでしょうか。そして、エニアグラムを知ったことで救われたでしょうか? むしろ、大いに傷ついたのではないでしょうか。 もし、あなたがあなたの知っている誰かのことを思い浮かべ、そのタイプの否定的な側面をあげつらって、こころのなかでその人を批判していることに気づいたら、むしろ自分自身に向かってこう問いかけてみてください。「わたしはあの人のことをよく思っていないのではないか?」「あの人を受け容れたくない気持ちがあるのではないか?」と。わたしたちは、そのような気持ちを相手にレッテルを貼ることで、正当化しようとしているのではないでしょうか。 自分自身に対しても、「わたしは○タイプだから」と決めつけると、「だからそれでいいんだ」といった一種の居直りが生じることがあります。自分をどんどんそのタイプに合わせていって、いかにもそのタイプらしいことを言ったりしたりすることもあります。これはタイプ病とも呼ぶべき困った症状で、エニアグラムの目的からは大きくはずれています。 エニアグラムを学ぶわたしたちは、よくよくこのことを心しておかなければならないと思います。エニアグラムはわたしたちの誰も、他の人間より優れた存在であるとか価値の高い人間であるとは教えていません。わたしたちの誰もが、まったく等価であり、あのエニアグラムの円の円周上にいるのだといえます。 エニアグラムを通じて出会ったわたしたちは、タイプを入り口としながらも、タイプを越えたその人個人のありように敬意を払い、それぞれの違いを受け容れていきたいと願っています。 エニアグラムを学ぶと、たしかに人のこころの囚われがよく見えてきます。「囚われ」とはそれぞれの性格の否定的側面であり、よくない傾向というか、もっとわかりやすく言えば、いわゆる「悪い癖」です。他人の性格の悪い癖は、自分の性格の悪い癖よりもずっと見えやすいところがあります。 そんなとき、思い起こしてほしいのは、新約聖書の中にある有名な教えです。イエスはこう言っています。 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか…」(マタイによる福音書第7章1−4) 「兄弟の目にあるおが屑」とは相手のタイプの囚われ、つまり性格の悪い癖であり、「自分の目の中の丸太」とは自分自身の(たいていは自覚できていない)囚われであるといえるでしょう。 タイプで人を決めつけることと、タイプを知りタイプを理解することは違います。わたし自身はタイプの判定の仕方について、もっともっと学ばなければならないと思っています。わたしたちはある人について、その人の持っている雰囲気やエネルギーの出方の感じなどから、「あの人はタイプ3っぽい」とか、「タイプ6っぽい」と直感的に判断することがよくあります。その印象は当たっている場合も多いのだけれど、ではなぜそうなのかというところが、いまひとつ言語化できず、もどかしい思いをすることがあるからです。 人によっては自分のタイプにたどりつくまでに、長い時間がかかることがあります。明らかにそのタイプではないというタイプを、自分のタイプと信じて動かない人もときどきいます。そんなとき、わたしたちはどんな手助けができるのでしょうか。 各タイプの描きわけが、もっと必要だとわたしは常々思っています。それぞれのタイプを描写する言葉がまだまだ少なすぎるのです。それは結局のところ、それぞれのタイプについての洞察を、もっともっと深めていかなければならないということにつながるわけですが。エニアグラムの類型論は経験的にきわめて妥当なものであるという実感を得ています。 「エニアグラムは人間学である」という言い方も、けっして大げさな言い回しではありません。だからこそ、学びの姿勢が問われます。 類型化を押し詰めると、結局のところ人はたんなる類型ではない、個々の人の人生のかけがえのなさ、これまで生きてきた歴史と、その背負うものの重みに気づきます。これは大きな逆説と呼べるかもしれませんが、類型化を押し詰めることによって、かえって個々の魂の唯一性というものに思い至り、そこに敬意を払わずにはいられないのです。
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