ご挨拶  2008 年
Enneagram the Next Generation


                            エニアグラムアソシエイツ代表 中嶋真澄

 エニアグラムアソシエイツの活動も今年で8年目となりました。
 エニアグラムというシンボルを通じてともに集う仲間という意味で、個と個のつながりを大事にしたいという気持ちから始めました。少しずつではありますが、ワークショップを介して、そのつながりが増えてきています。
 ちょうど、アソシエイツの活動を始めた1999年から2000年にかけて、わたしは何度か夢を見ました。何か大きな植物の株が枯れかかっていて、その枯れかかった株から新しい芽が吹き出していくというものです。
 ちょうどそのころ、私はほんとうにエニアグラムで人は変われるのか、人と人との絆が確かなものになっていくのかどうかという疑問を持っていました。枯れかかった株というのは、どういう仲間と自分がエニアグラムを学んでいくかということに関する私の悩みを象徴していました。それよりも、夢の暗示では、新しい芽が出ることが大事でした。
 そして、当初の代表であった木ノ内博道さんと副代表の後藤允子さんの二人の先輩に助けられて、ほぼ毎月休むことなくワークショップを続け、なんとかここまでやってきました。
 昨年は新しい展開がありました。今年もまたさらに新しい展開が期待できます。エニアグラムは進化する。と同時に、私たちも進化し続けたい・・・。
 
 エニアグラムへの興味は、初めは9つに分類された性格のタイプについてでした。それがグルジェフのいう『第四の道』への出発点であったことは、あとになって気づいたことです。いまその道の途上にいて、というよりも、まだその道のとば口に立っているにすぎないのかもしれませんが、それでもわずかに見えてきたことがあります。
 それは私たちが日常、いかに空想の世界に生きているかということなのです。エニアグラムの師であるリソ&ハドソン両師からは、すでに何度もそのことを聞いています。ですが、ほんのわずかな瞬間、自分に見えているものがある人々には見えていないと気づくとき、はっきりとその意味がわかりました。

 日常接する人々に見えていないものが自分には見えている。それは必ずしも、ハッピーな体験ではありません。もっとも、さらに道の先を行く人には、こういう私とて同じことかもしれません。私に見えていないものが、その人には見えている。その人の前では、私はまだまだ、自我の迷妄の中にとらわれ、右往左往しているだけに見えるのかもしれません。
 ナランホの言葉を借りてくるならば、「すべての性格は認知の誤りである」ということでしょう。人は自分が見たいようにしか、観ていない。そして、自分が聞きたいようにしか、聴いていない。いかに私たちは「見ているのに、観えていない」か、「聞こえているのに、聴いていない」か。「いまここ」にとどまることによって、わずかに垣間見えるリアリティも、一瞬にしてまどろみの中に消えていくようです。
 古代の賢者たちによって発せられた、「汝、自身を知れ」と「目覚めていよ」という言葉を、あらためて思い起こしたいと思います。

 エニアグラムの学びは「知識」と「知恵」の違いに気づかせてくれます。「知識」にとどまる限り、その認識はリアリティには届きません。なぜなら、自我は自らのよって立つ高みから下りることができず、自我の満足がそれ自体、苦しみの元であることに気付かないからです。「知恵」によってもたらされるパースペクテイブは「知識」によって得られるそれとはまったく次元を異にするものです。「知恵」は「知識」によって得られるものとはまるで、逆しまの真理をもたらします。
 ところが、私たちの自我は「知識」を愛し、「知恵」を敬遠する傾向があります。それゆえ、「知識」において自分は賢いと思っている人ほど「知恵」においては愚かであり、自分の愚かさを知る人の中には知恵があるのだといえるでしょう。

 日々の喧噪のなかで、物質的なものにのみ価値を置き、スピリチュアルな希求すらも名誉や金銭に置き換えられる時代の中で、眠りこけてしまわないうちに、わずかでも目覚めていようとして、むしろ何かに駆り立てられることをやめてみる、その余裕を必要としています。
 格差社会といわれる今日、自分とは何かと問うことが、自分探しや生きることの意味を問うこと自体が、格差の「下流」に位置することだといわれてしまうようなこの時代に、それでも生きることの真実に触れてみたいという気持ちを持ち続けるなら、リアリティを再び垣間見られる瞬間が、やってくることでしょう。
 わずかでも目覚めていたい、自分や他者の自我の迷妄から抜け出て、道の向こうに魂の輝きが透けて見えるクリアな視界を得たいという方、今年もともに集う機会が持てれば嬉しいです。